かおり’s blog

《かおりの過去現在未来を文字にするスペース》1+1≠2な私。勉強も家族も自分も友達も体当たりな日々の記録から。

男女不平等社会 ねぇ、だってそうでしょう?1/8〜8/8全文まとめ

こんばんは(^^)

クリスマスイヴとクリスマスの2日間、大好きな友達とその友達の大好きな彼氏と3人で腹筋痛くなるくらい笑って、おかげで楽しい思い出がたくさんできて、そのすべてをずっと抱きしめていたい香です。

明日は、いよいよYuKa's homeのXmas partyです!クリスマスらしい飾りやお料理を心を込めて準備します。2015年、最後に乾杯♪そして楽しくお話しましょう。ホームパーティーに来る感じでわくわくしつつも、緊張せずゆる〜〜っと来てくださいね!

残席1名様です....!


さてさて、こちらの「シリーズ」男女不平等社会 ねぇ、だってそうでしょう?をまとめて読みたい!とリクエストいただいたので、さっそくまとめてみました。

(もともと、大学2年生の時の授業で課されたレポートなのですが、いろんなこと考えさせられる体験であり、レポートだったのでシェアさせていただきました。)

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「授業名」

家事労働論

「課題」
身近な女性高齢者に、ご自身の20~30歳当時の家事労働論や家庭生活の様子を聞いて文章化する。

茨城大学教育学部教員養成課程家庭科選修 
2年次 渡辺香
平成26年1月10日 提出

語り手(私の祖母)の情報
①生まれ年/結婚時期
昭和12年生まれ
昭和34年結婚

②住まい
福島県安達郡(結婚前)

③家族構成
夫、本人(妻)、夫の両親、夫の両親の両親、夫の父の義理の母2人(?)、夫の兄弟8人(男6人女2人)

④職業
農業従事者

⑤語り手本人の家族内での地位、立場
家長=夫の父が最高権力者、それ以外は全員平等。嫁も子どもも奥さんも。(自分が家族の中でどの地位にいるか分からずにいたという話あり)

聞き手(私)の情報
渡辺香
語り手(祖母)と大学進学するまでの18年間、同居していた孫


祖母は、平成26年の今年満77歳になる。15歳で中学校を卒業後は、高等学校に進学したいという希望があったという。しかし、父にその思いを伝えると、「女が教育を受けると生意気になる。女は結婚したらおしめを代えるだけ。」という理由で許しをもらえない。「和裁の学校になら通わせる」という父の言葉で、仕方なく安達修斉女学校に進学する。本科1年、研究1年、師範1年までの課程を修了する。高等学校に進学するよりも和裁の学校に進む方が学費は実習費などを考えると余計にかかったという。つまり、学費は関係なく女は教育よりも家事、育児をするべきものだという考えが根付いていたと考えられる。戦後、良妻賢母という言葉の浸透(国家戦略)とともに、男を支えるのが女の義務という考えが強く広まった、と考えられ、本人もそのような認識をしている。


農家の長男であった私の祖父と結婚するのは、祖母が22歳のときである。いつもは優しい祖母の父が、「百姓に行けば食うのに困らない。土地はトラックにつけきらない。(結婚に)行きたくないなら縁を切る。出ていけ。」とその時だけは厳しく言われたそう。祖母もその言葉に驚いたという。娘時代は、裕福で自由気ままに暮らせていたことから、一度くらいは父の言うことを聞かなくてはいけないかと考える。ほとんど無理やりのことで、今の暮らしに幸せを感じてはいるものの、結婚については、自分の思い通りにならなかったという点で、今でも悔やんでいるという。

農家に嫁いだ祖母であるが、農作業や炊事の経験は全くなく、火のつけ方も分からないほどだった。祖母は、自分が農家に嫁ぐなど考えたこともなかったから、何もしたことがなかった。家族で旅行に出かけたりできていた娘時代とはまるで変って、祖母が嫁になってからの生活レベルは一気に低下した。労働は辛かった。体力には人一倍の自信があった祖母も相当寝込んでしまって、自分でもおかしいと思ったほどだったそう。しかし祖父(夫)の兄弟が優しくかなり助けてもらったという。

祖母は、勤めは楽という考えがあり、勤めに行く雰囲気を味わいたいという理由から、「外に勤めに出たい。」と家長に申し出る。すると、「勤め先で、仲間同士で喧嘩して後ろを向いて昼ごはんを食べているという話聞くぞ。家のことと外での仕事との両立は身体が大変だ。金がほしいなら金は言うだけやる。」と断られる。祖母のことを気遣ったような言葉だが、もっと強く頼んでも絶対に説得はできなかったという。家長は、嫁は家で百姓という考えが強かった。ただ、近所の嫁はほとんど外に勤めに出ていたという。


結婚の翌年、23歳で長男(私の父)を出産する。祖母は、盆と正月に家長から500円ずつ小遣いがもらえた。実家では、1000円ももらえていたそう。年に2回ほど380円のパーマ屋に長男をおぶって出かけた。パーマ屋には子どもを連れてくること怒られたが、家に預けていくことは出来なかった。 実家に帰るのは、神事(体を休める日)の日で、3月の節句、5月の節句、盆(嫁は、8月16日以降と言われていたそう)、などの行事の後で、年に4~5回程度。決まって行事の後なので、兄弟や親族は帰ってしまっていて彼らにはなかなか会えなかったという。神事は、いつとはっきりと決まっているものではなく、祖母が自分から申し出ることもできない。家長が突然、「今日は泊まってきていいぞ。」と言い渡していたそう。だからと言ってすぐに泊まりに出かけられるわけではなかった。祖母の父に教えで、泊まりに行くときは風呂をかえていかなくてはならなかった。嫁のいない間、せめて風呂でゆっくりさせてやれ、ということらしい。当時は毎日風呂のお湯をかえていなかったからだ。バケツに12~13杯分の水を運んでこなくてはならず、これも重労働だったはずだ。


実家に帰ると、父から1000~2000円、2番目の兄から2000円の小遣いをもらっておりお金には困らなかったという。おそらく、実家で少々の弱音もはいたことだろう。父に、「10年間は着物と金も続けるから。10年後、俺は何もできなくなる。(経済的支援など)。」などと言われていたそう。「娘三人持てばいろりの炭までなくなる」という言葉があったほど、実家側に支援は大変という言葉もあったそう。
また、「男に前日の残りを食わせるな。」という教えがあったため祖母は、夕食のにぐるみ(鍋にうどんを入れて量増ししたもの)を必死に食べた。曾祖母は、その祖母の様子を見て、祖母はにぐるみが好きなんだと思い食べるのを遠慮していたという話もあったほど。


祖母が主にやっていた仕事は、朝4:30に起床して搾乳、食事の用意、農作業、育児。「台所は女の城。男が入るべからず。」という言葉があったが、家長が養子でその義理の母(?)もずっといたため祖母が嫁に行く前から家長が台所に立つことは珍しくなかったらしい。その複雑な家族構成なので、家長の奥さん(曾祖母)には、姑が3人いることになりそれぞれからケチをつけられないようにと家長が家長の奥さんをかばうために積極的に家事をやったという話もあった。「男子禁制の台所に、男、ましてや家長が手伝いに来ることに抵抗感はなかったのか。」という質問をしてみた。嫁に来たころから家長が台所にいたから抵抗感や違和感を感じたことはなかった。自分から誰かに手伝ってと言いたくても言えなかったので、こういう人がいればいいなと思い感謝していたそう。


慣れない家事や農作業で頻繁に体を壊し寝込んでいた祖母。昭和54年には胃がんの手術も受けている。「一番最後に家に入った人が疫病神」という言い伝えのようなものがあり、それによると嫁は一番低く、たたりにも弱いと考えられていたそうだ。祖母本人もその通りだと言っていた。
「今は、女も働きに行くもの当然になった。今も働きに出たいと思うか。」という質問をした。働きにいきたいと思わないという予想と違った答えが返ってきた。
「今、男の人が家事をやることをどう思うか。」という質問も続けて聞いてみた。今、男も家事をやっていいと思う。当時は一緒に山(農作業)から帰ってくるのだから。でもやりづけない(慣れていない)人は出来ない。だから責める気にもなれなかった。仕事がきっちり男女で分担してあり、夫(祖父)手伝いようがなかったという。ただ、曾祖母(家長の奥さん)に炊事を手伝ってもらいたいという不満はあったという。
「家事で楽しかったことはあるか。」という質問に対しては、長い沈黙の中、必死に考えていた様子だったが一つも答えは返ってこなかった。
反対に「辛かったことはあるか。」という質問に対しては、子どもを産むときに深夜の11時に夕飯を食べることになったこと(空腹)。百姓仕事が満足にできなかったこと。腹が減ったこと(貧しさ)という回答があった。

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明日は、いよいよYuKa's home Xmas party🎄
お会いできることを楽しみにしております!20名限定なのでお一人お一人とゆっくり話せるのが嬉しいな(^^)


そして、明日の深夜には金沢へ出発です!もし予定空いたよ!っていう方がいらっしゃればぜひご一緒しましょう!子どもたちと雪山でたくさん遊ぼう!



それでは、残り数時間ですが最後まで素敵なクリスマスを〜!

メリークリスマス🎅🎁

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